人へのお詫びを通して、人としての器をひろげる

だいぶ長い期間、お客様と接する仕事をしています。

なので、何かしらのミスでお客様のところへお詫びに行く機会も多々あり。

社会人なりたての頃は、お詫びの場面が本当に怖くて、いつも最悪のケースばかり考えて寝付きの悪い夜を過ごしていたものです。

当時に比べれば、今はだいぶ成長したなと感じます。

さて先日、あるお客様のところへ向かっているときに、同行している人から

「よくそんなフットワーク軽く、お客様のところへお詫びにいけますよね。嫌じゃないんですか?大変じゃないですか?」

と、唐突に聞かれました。

「そういえば、何でだろう?」

お詫びに行くとき、お詫びの電話をするとき、いつも緊張しますし、不安や怖さも抱えています。

あらかじめ話す内容、対応しないといけないことなどは何度も確認していますが、やっぱりその場でどう言われるかわかりませんし、ちゃんとお客様がご納得いただけるか、実際にお話しをしてみないとわかりません。

できればやりたくないな…という気持ちは正直持ちながら、でも、今こうしてお客様のところへ向かっている自分がいる。

どんな気持ちで、どんな意図で、どんな目的を持って臨んでいるのか?

これらを考える機会となりました。

今まで行なってきたお詫びを振り返ってみると、自分が起こしてしまったミスより、自分以外が起こした何かしらのミスに対するお詫びがほとんど。

当初は「何で自分が詫びないといけないんだろう」と考えることもありましたが、しっかりとお客様の気持ち(痛み)を受け止め、お客様の求める答えをお出しする人がいないと、いつまでもお客様の不満や不信感はそのままとなってしまう。

お客様は何も悪くないのに、お客様が被害を受けているって変でしょ?

せめて自分が担当するお客様には、こんな気持ちをずっと持っていてほしくない。

だから、やろう。

こんな動機だったような気がします。

そしてそんな事を考えながら、お詫びの場面が来るたびにその事実とお客様に向き合い、ひとつずつ丁寧に対応していく中で気付いたことがあります。

それが、お詫びをするたびに人間性が磨かれるということ。

自分以外の人が起こしたミスを、自分が詫びるということは

「何でオレが詫びないといけないの?やった人が詫びないとでしょ!」

という気持ちとまず最初に戦うことになる。

お詫びを経験したことのある人なら、誰でもこのような感情がほんの少しであっても湧き出たことがあるはずです。

でも、そのお詫びをすることが自分の役割として与えられている。

褒められるのではなく、怒られにいくのだから、良い気持ちはしない。

不安、心配、恐怖との向き合い。

ごめんなさい、申し訳ありませんと頭を下げる場面は、プライドとの戦い。

こうしてお詫びをするというプロセスにおいて、様々なかたちで自分のエゴが湧き出てくる。いくつもいくつも。

これをひとつずつ認識し、抑えるなり、横に置くなりして、消化していく。

お詫びをするときは、こんなエゴとの戦い

だから、常に自分のエゴを認識し、自分自身と向き合える場であるということ。

このエゴを消化した状態で、お客様のもとへ向かうようにする。

これを繰り返すと、人間性が磨けるじゃないか。

人の器がひろげられる、精神の修行だと。

そう考えると、どんな事象であっても「全ては学びになる」わけだから、前向きに臨めるようになる。

周りから見て、私がフットワーク軽くお詫びに行くのは、こういった理由からでした。

ふとした問いかけから言語化してみたものですが、お詫びという行為に臨む多くの人へ、少しでも前向きな気持ちを持っていただくきっかけになれば、なおさら嬉しいです。

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この記事を書いた人

組織の再生士 / アーティストを育てるアーティスト

ロボットベンチャー企業で組織作りを担いつつ、地域おこし・地域コミュニティの活性化を行っています。