「建設は死闘、破壊は一瞬」という言葉は生きている限り忘れずにいたい

春のセンバツ高校野球が開催されていますね。

今年は雪がほぼ降らなかったこともあり、あっという間に冬が通り過ぎ、いつの間にか春。球春到来しちゃったなーという感覚です。

そんな高校野球を見ると、自分の高校野球時代を思い出します。

当時は、試合や練習でミスすると怒られることにだいぶメンタルやられており、萎縮した状態でプレーしていたなぁと。

試合も練習も、どこか憂鬱な気持ちを抱えながら参加。

だけど、チームメイトと一緒にやっている時間は楽しく充実していたようで、3年間やり切ることができました。

このとき、当時の監督が常に言っていたのが

建設は死闘、破壊は一瞬

読んで字の如くですが、何かを作ったり建てたりしていくことは日々地道な積み重ねが必要。

ときに問題や課題に直面しながら、それをひとつずつ乗り越えていく作業。

目標やゴールを達成する近道はなく、とにかく積み重ね。積み上げ。日々努力。まさに死闘。

一方で破壊というのは、作ったモノならハンマーで一撃、高いところから落とせば一瞬。建物なら重機やダイナマイトで難なく壊せる。

建設に費やした時間や労力と比べて、なんとも簡単に破壊できてしまいます。

野球の練習においても、毎日の積み重ねは苦しいが、こうして苦しくも積み上げていかないと上達しない。

止めることは今すぐできる。簡単に、一瞬で。

つまり、日々努力して積み上げていくことは、苦しいが、尊い。

こういう意味合いを表現した言葉と理解しています。

この数週間、ニュースで著名人の失言が取り上げられ、それまで築き上げてきた地位や名声が一瞬で崩れていくような様子を見て、この「建設は死闘、破壊は一瞬」という言葉の重さを痛感しました。

これを受けて、さて自分の行動や言動はどうか?

日頃の仕事や生活に対する意識、心がけはどうか?

何をするにしても「慣れ」というものが出てくると油断や隙が生まれ、こんなときに自分の行動や言動が乱れます

それが失言とか、失態というものになるのだなと思いました。

年を重ねていくにつれ、この失言や失態の重みは増すので、様々な経験を積んで自分の能力やキャパシティが上がっていくほどに「客観性」や「謙虚さ」を常に考え、自分へ問うていかなければならない。

ここ最近、自分自身も仕事や生活への慣れから生まれた行動や言動により、周囲の人へ不快な思いを与えてしまうことがあり。

思い返せば、そこには慣れや油断、驕りが存在したなと、確かに感じます。

今回、自分に起きたこと、そして自分の周りで起きたことを気づきの機会と捉え、改めて「建設は死闘」な日々を過ごしていかんとなと気を引き締め直しました。

何かひとつのミスにより、今まで積み上げたものが崩れる。今までの信用や信頼を失ってしまう瞬間。

ただ、そのミスを起こした部分だけを切り取れば残念なことだが、

この人が今日に至るまでに行なってきたことは何か

に目を向けてあげることも、一方で必要だと思う。

生まれてから今まで、悪行の限りを尽くしていた人であればこんな風に考えなくてよいと思うが、一般的に人間であれば今に至るまで何かしら積み上げ、社会へ貢献してきたことがあるはず

それを一切合切なかったもののように切り捨ててしまうのは酷かと。

今回起こしたミスは、ミス。それは本人が反省すべきこと。

一方で、これまでに積み上げてきた(貢献してきた)ことについては、感謝や承認はする。

そして、この感謝や承認を、ミスしたことと合わせて本人へ伝えてあげることで、本人の内省が進むのではないかと思いました。

↑モノやコトの良し悪しを自分基準のみで判断せず、相手側の視点や自分以外の視点でも見てみることで、相手の全容や本質が見える。こちらの記事もぜひご参照ください。
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この記事を書いた人

組織の再生士 / アーティストを育てるアーティスト

ロボットベンチャー企業で組織作りを担いつつ、地域おこし・地域コミュニティの活性化を行っています。