役割は役割であって、その人そのものではない

地域の活動に参加していて、○○リーダー、○○先生、○○長という呼び名付きで呼ぶ・呼ばれるやりとりを時々見かけました。

その中で気になったのは、呼ぶ人と呼ばれる人それぞれの意識。

呼び名を付けて呼ぶ側は、恐れ多い感じになって、下手に出過ぎた接し方。

呼ばれる側は、それを認識してなのかそうでないのか、上から物事を言える・聞ける立ち位置に浸っている感じ。

呼ぶ側が相手に対して敬意を持って接することは必要ですが、それが行き過ぎて「○○長の言うことが絶対」的なやり取りになっており、『本当は伝えたいこと、やりたいことがあるのに、それを言わずに蓋をしている』状態を何度か目にしました。

これを見たとき感じたのは、

「呼び名(=役割・役職)がついていると、偉いのか、すごいのか」

○○長、リーダー、先生などと呼び名のある人は、他の人からもそう呼ばれていますが、『その呼び名の本来の役割を、当人が実践できているのか』までを考えて、コミュニケーションを取っている人ってあまりいないのかも、、、と。

呼び名にはそれぞれ、求められている役割、それを担うために必要な経験・スキル・実績といったものがあると思いますが、これの有り無しを、ちゃんと自分自身の五感で感じて、考えているだろうか。

ただただ、呼び名に対する印象(偉い、すごい)を勝手に自分自身で持って、上下の位置関係を自ら作り出しているような気がします。

お互いにひとりの人間。呼び名は、たまたまその役割を担っていただけ。

役割=その人の人間性全てというわけではない。

なので、例えば○○先生と呼び名がついている人に対して、

「先生だからすごい、偉い、頭がいい」

などと解釈して、萎縮したり恐縮したりしなくて良い。

ひとりの人間として敬意を持って接すれば、それで話は成り立つかと。

むしろ、呼ぶ側が先生に対して話したいこと、伝えたいことを自然に出せるので、より良い結果が生まれるのではないかと思います。

一方、呼ばれる側はというと、、、

例えば『先生』と呼ばれているからと言って、驕らないことかと。

『先生』という言葉は、人に教える立ち位置にあるので、無意識に偉ぶってしまいがち。なんとなく持ち上げられている感も、感じやすい。

なので、これに気づかないでいると、本来求められる経験、スキル、能力を身につける為の努力を忘れ、横柄さや図々しさが滲み出る人になってしまう。

周りの人たちも「先生、先生」と呼ぶから、本人も「私は先生だ」と認識を強めていくけど、実態と合っていない人はオーラが出ない。

そしてこのまま歳を重ねていくと、

「自分は偉い、すごい人だ」と思っているけど、実は周りの人たちからは、「あー、あの○○さんね(笑)」と言われてしまう。

もともとひとりの人間なのに、呼び名=役割がついたことで自分自身に生じる勘違いに注意を払わずに生きていったことで、可哀想な人になってしまう。

たったひとつ意識を向けるか向けないかで、人からの見方が180度変わってしまうのは、なんとも残酷。

これから、私も歳を重ねていくにあたり、どこかでリーダーのような役割を担当するときがあるかも知れません。もしかしたら、なぜか突然『先生』と呼ばれるときがくるかも知れません。

今回の気づきを活かすならば、「自分は役割を担えているだろうか」という問いを自分自身に投げ続けることだなと思います。

そして、問いかけながら、役割を担えるように学び、成長する努力を続けること。

それでも「できていない」または「自分より適した人がいる」と感じたならば、他のできる人へスパッと譲る。

こういう風にしていきたいと思います。

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この記事を届けた人

組織の再生士 / アーティストを育てるアーティスト

ロボットベンチャー企業で組織作りを担いつつ、地域おこし・地域コミュニティの活性化を行っています。