「本当はあれがしたかったんだよね」
「こうしたかったんだけどね」
「だけど、やらなかった」
何かしら湧き上がってくるものがあったから
「やってみよう(やってみたい)」
と思ったのに、実際に行動する前から、行動したあとの失敗と、失敗した場合の周りからの見え方を気にして結局実行に移さない。
そして、実行しなかったことをあとで
「やればよかった」
「本当はやりたかった」
と、自分に投げかけて納得させているように感じることが、ときどきあります。
やらないで後悔することはいくらでもできる。言うだけだから。
一方、やって後悔するのは、やらないとできない。味わえない。その回数は、やらない後悔よりもだいぶ少ないはずだから、やって後悔することは貴重な機会。
貴重な機会だと言うのは、
実際に動いてみたから体感でわかること=学びが必ず得られるから。
自分を、今その地点よりも成長させるためのヒントとなる学び。
思考の成長、行動の成長、感情の成長などなど。
経験も手に入りますね。
学びについては大小や良し悪しの物差しは置かず、やってみたから得られた「それ」を受け取って、見て、次にどう活かすか?を考えればよい。
「それ」がいくつもあるなら、その数だけ受け取って、見ることができるので、その分だけ成長していると思います。
やって後悔することにこのような効果があると頭ではわかっていても、その時点では「やって失敗した」訳だから、恥ずかしさや怖さ、不安や心配などに襲われるし、悔しさもたくさんこみ上げてくるはず。
できれば味わいたくないものかも知れない。
だから、やろうと思っても結局やれない。
躊躇してしまうのかなと思います。
でもよく考えると、やって失敗したときに感じるものは、だいたいが周りの目線から見た自分に対してのものじゃなかろうかと。
周りの人がどう思っているか、どう感じているか、どう見ているかというところになかろうかと。
でも実は、人(この場合は他人、周りの人たち)って結構自分のことばかり考えているので、わたしがしたことや感じたものについては、あんまり興味がない。
その一瞬は興味や意識が向くけど、すぐ自分自身に意識が向いている。
なので、わたし自身が感じているほど人は感じておらず、またその感情が残ってもいない。一時のもの。
自分に対して
「1日のうち、他の人のこと(現在、過去、未来)を考えている時間はどれくらいある?」
と訪ねてみると、きっと数える程度なはずです。
だから、人がどう思っていたか、感じていたかに強く囚われる必要はない。
「自分のことは、みんな自分自身で処理しているのだから。だったら、やらないよりはやってみた方がいいんじゃない?」
「やらない後悔より、やって後悔した方が百万倍うれしいって!」
こんな風に気楽に考えていいんじゃないかなと思います。
何かをやりたいなら、まずやってみる。
失敗は恥ずかしいものではなくて、成長の宝。
失敗は自分の弱さだったりするけど、失敗したことをみんなに見せてしまえばいい。笑い話にしてしまえばいい。
弱さを見せられる人は、強いから。
弱さを見せられた人は、強くなれるから。
やらないで後悔している限り、いつまでも手に入れられないものです。